Activity2016年度の活動内容

日露友好 歴史の一幕を観る
ヘダ号を訪ねて—戸田造船郷土資料博物館

友愛の像 友愛広場 日露友好の礎

静岡県沼津市戸田にある「戸田造船郷土資料博物館(駿河湾深海生物館併設)をご存じだろうか。日本初の洋式帆船ヘダ号に係る資料が展示されている。しかしその奥には、日本とロシアの友好の歴史の始まりともいえる興味深い物語がある。
過日鳩山由紀夫理事長はこの博物館を訪ね、大きな発見をした。博物館のある敷地は「友愛の広場」であり、日露両国の青年の像は「友愛の像」と命名されている。そして日露和親条約にみられる、真の日露友好の足跡が、そこにはしっかりと記されていた。
『友愛』の読者にもこの事実を伝えたいと川手常務理事、奥田理事が現地を訪れた。現地では、関係各位のご協力を得て、様々な資料とともに多くを知ることができた。
興味深い戸田の歴史とともに、ここにご紹介する次第である。なお、博物館に展示されている品々は静岡県の近代化産業遺産に指定されている。

安政の大地震

1852年、ニコライ一世の命を受けたプチャーチン提督は、遣日全権使節として、平和的、友好的な日露国交交渉を行うべく、サンクトを出発しました。大西洋を南下、喜望峰を回り約1年かけて長崎の出島に到着します。
幕府との交渉が進まず、いったん退いてディアナ号に乗り換え、再度日本を訪れたときには、日米和親条約が既に結ばれていました。
プチャーチン提督は何としても国交交渉を成立させねばならず、幕府は対応に苦慮し、既に開港していた下田港での交渉を提案します。そこで下田港にディアナ号を停泊し川路聖謨(かわじとしあきら)との交渉を待っていたのですが、1854年11月4日に起きた「安政の大地震」による津波で、波にのまれたディアナ号は湾内をさまよい、舵と船底を大きく破損してしまいました。
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*安政東海大地震津波 M8・4 戸田の震度5 戸田総戸数五九三戸の内、二十四戸流失 潰家八十一戸 大破三十三戸
亡くなった方三十名
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このディアナ号の修理の場所として白羽の矢が立ったのが戸田の港でした。駿河湾は、日本一深い湾で、戸田の港も十分な海深があり2000トン級のディアナ号も乗り入れる事ができます。何とか自力で戸田の港に向かったディアナ号でしたが、突然襲った強風のため戸田湊には入れず、プチャーチン提督は乗組員全員に退艦命令を出しました。波にもまれるカッターボートを、漁民たちが命綱をつけ曳き、救助活動にあたったのです。500名余の乗組員は、村の人々の助けで奇跡的に上陸することができました。
その後、ディアナ号は百隻の小舟を使って、曳航されることになったのですが、またしても強風に見舞われ、最後は駿河湾に沈んで行きました。

ヘダ号建設

帰る船を失ったプチャーチン提督は、幕府に船の建造を願い出ます。ここでも戸田の船大工たちが、大いに力を発揮します。
和船の技術を活かし、全く新しい洋式船の建造に挑戦したのです。長さの単位も違い、基本的な船の構造も大きく違います。何より、言葉が通じないという大きな壁がありました。それでも技術者同士の交流は、目的を一つに見事な実を結んだのです。
ロシアの技術士官も、「継ぎ目の線がやっと見えるかと思うほど、ち密な仕事ぶりで、且つ迅速に几帳面に仕事にあたっていた」と日本の船大工を絶賛しています。何と本格的な日本初の洋式船は、およそ3か月という速さで造り上げられました。

感謝の念を忘れずに

日本初の洋船は、100トンにも満たない船でしたが、プチャーチン提督は、船の完成を喜び、自ら「ヘダ号」と命名しました。
そして「我が魂を永遠にこの地に留め置くべし」という言葉と、様々な記念の品を残し、ロシアに帰って行きました。
その言葉の表れが、娘のオリガ・プチャーチナさん(ロシア皇后付名誉女官)の戸田訪問です。オリガさんは、亡き父が戸田の人々から受けた多くの気持ちに感謝すべく戸田を訪れ、プチャーチン提督が滞在し、執務室に使っていた宝泉寺を初め、様々な父の足跡をたどりました。その後日本とロシアとの関係は良好なまま進んだとは言えませんが、時が流れ1969年に「戸田造船郷土資料博物館」が建設されるにあたって、ソビエト連邦政府は500万円を戸田村に寄付しています。当時のトロヤノフスキー在日ソビエト連邦大使が、直接戸田に赴き、山田三郎村長に手渡しています。ロシアにおけるヘダ号、戸田村の高い評価と感謝は、今も続いているのです。

日露和親条約

1856年、プチャーチン提督の副官だったポシェート氏が、日露和親条約の批准書を携え来日します。この折、ヘダ号も返却されました。ポシェート氏は1882年、日本を再訪し戸田湊に船を留め戸田村の人々との再会を果たします。戸田での数ケ月が、いかに思い出深いものであったのかを、この逸話は伝えています。
現在サンクトペテルブルグ外交史料館に保存されている「日露和親条約」の内容が、この資料館に展示されています。
全文をご紹介します。

日本国魯西亜国和親条約

魯西亜国と日本国と、今より後、懇親にして無事ならんことを欲して、条約を定めんが為の、魯西亜ケイヅルは、全権アヂュダンド・ゼネラール、フィース・アドミラール・エフィミュス・プーチャチンを差越し、日本大君は重臣筒井肥前守・川路左衛門尉に任して、左の条々を定む。

戸田造船郷土資料博物館建設

プチャーチン提督を始めとするロシアの人々の戸田村に対する友好の念は強かったのですが、戸田村の人々もこれに劣らぬ強い友好の念を抱いていました。
1904年には、日露戦争という事態を迎えますが、戸田村の人々は、プチャーチン提督が、感謝のしるしにと置いて行った品々を大切に保管し続けたのです。それもそのはず、安政の大地震では、村人も津波の被害にあい、自分たちの命を守り生活を守ることに必死だったのです。そんな状況の中で、500名もの異国の人々を命懸けで助け、介抱し、3か月の間手厚くもてなしたのです。
戸田村の人々と、ディアナ号の乗組員との間に生まれた心情、それこそが「友愛」の思いだったのでしょう。
1967年、戸田村の各地(個人所有など)にあったディアナ号、プチャーチン提督に関する品々が、静岡県の史跡に認定されました。これを受けて、戸田村の人々の総意で「戸田造船郷土資料博物館」が建設されることになりました。

友愛の像

昭和44年、当時の戸田村村長を務めていた山田三郎氏は、村民の心にある思いやり、助け合い、そして言葉の障害を越えて船を作り上げた、お互いを理解しあう心を、戸田村の象徴として残すことを考えました。
静岡県生まれの彫刻家・堤達男氏に依頼し、出来上がったのが、日本とロシアの青年の像「友愛の像」です。2人の青年は、船の錨を中央に手を重ねています。これはディアナ号とヘダ号の物語を表すと共に、「海は世界をつなぐ、友愛のきずなである」という、山田三郎村長の思いが表現されているように感じます。
山田三郎村長の思いは、自筆の石碑として、「日露友愛の像」の前に建立されています。

石碑の文面

日ソ友愛の像 海は世界をつなぐ、友愛のきずなである。孤立した島から、大陸から人はこのきずなによって結ばれ それぞれの文化を高め文明を築いて生きた幕末の頃 プチャーチン提督の乗艦ディアナ号が遭難するや戸田の人々はこれを助け露国人と共に協力して代艦戸田号を建造した。
友愛の灯はこの時 あかあか と二つの国を映したのだ 爾来幾星霜世相はどのように変ろうとも二つの国の人々の心の奥底に友愛の灯は決して消え失せることはないであろう
 村長 山田三郎 謹書

友愛の松

記念資料館を建設し、ディアナ号との交流、プチャーチン提督の思い出を次代に継承したいと思った戸田の人々の思いに、ロシア側も当時のトロヤノフスキー在日ソビエト連邦大使が戸田を訪れ寄付の目録を手渡すなど、誠意ある対応で応えています。さらに、言葉の隔たりをこえて育まれた友情を称賛する思いは、日本もロシアも同じことです。戸田を訪れた記念に、トロヤノフスキー在日ソビエト連邦大使は、現在の戸田造船郷土資料博物館横にある、当時樹齢百年ほどの松を「友愛の松」と命名しました。この松は近隣でも珍しい程の大きな松となって今も元気に育っています。トロヤノフスキー在日ソビエト連邦大使は、ディアナ号の遭難、ヘダ号の進水を見ていたであろう浜辺の松を選んで、「友愛の松」と名付けたのはないでしょうか。

最後に

ここまでディアナ号、ヘダ号、プチャーチン提督にまつわる戸田の歴史を駆け足でご紹介しましたが、いかがでしたか?
紐解いてみればびっくりするような史実があるものです。そして事実のなかから浮かびあがってくる「友愛」の言葉は、国境を越え、言葉の違いを越え、人と人が仲良く出きることを伝えています。
私自身が一番興味深く感じたのは、日露和親条約と、和船と洋船の違いです。
紀伊国屋文左衛門のミカン船に見る和船は、確かにコロンブスのサンタマリア号やアメリカのコンスティチューション号とは、帆の向きが90度異なってます。大海原を走るには、洋式船の機能がいかに優れていたかが解ります。実際幕府は、戸田の船大工たちが覚えた技術を基に、洋式船の建造に乗り出しているのです。船の走るその海は、山田村長の言う「友愛のきずな」です。日露和親条約に記されていることは、海を絆に人々が友愛の理念のもと友好関係を築くことができる証だと思います。
今回の取材では、多くの方にお世話になりました。改めて厚く御礼申し上げます。 随行取材/羽中田記

友愛 活動詳細
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