日露友好 歴史の一幕を観る
ヘダ号を訪ねて—戸田造船郷土資料博物館
友愛の像 友愛広場 日露友好の礎
静岡県沼津市戸田にある「戸田造船郷土資料博物館(駿河湾深海生物館併設)をご存じだろうか。日本初の洋式帆船ヘダ号に係る資料が展示されている。しかしその奥には、日本とロシアの友好の歴史の始まりともいえる興味深い物語がある。
過日鳩山由紀夫理事長はこの博物館を訪ね、大きな発見をした。博物館のある敷地は「友愛の広場」であり、日露両国の青年の像は「友愛の像」と命名されている。そして日露和親条約にみられる、真の日露友好の足跡が、そこにはしっかりと記されていた。
『友愛』の読者にもこの事実を伝えたいと川手常務理事、奥田理事が現地を訪れた。現地では、関係各位のご協力を得て、様々な資料とともに多くを知ることができた。
興味深い戸田の歴史とともに、ここにご紹介する次第である。なお、博物館に展示されている品々は静岡県の近代化産業遺産に指定されている。
安政の大地震
1852年、ニコライ一世の命を受けたプチャーチン提督は、遣日全権使節として、平和的、友好的な日露国交交渉を行うべく、サンクトを出発しました。大西洋を南下、喜望峰を回り約1年かけて長崎の出島に到着します。
幕府との交渉が進まず、いったん退いてディアナ号に乗り換え、再度日本を訪れたときには、日米和親条約が既に結ばれていました。
プチャーチン提督は何としても国交交渉を成立させねばならず、幕府は対応に苦慮し、既に開港していた下田港での交渉を提案します。そこで下田港にディアナ号を停泊し川路聖謨(かわじとしあきら)との交渉を待っていたのですが、1854年11月4日に起きた「安政の大地震」による津波で、波にのまれたディアナ号は湾内をさまよい、舵と船底を大きく破損してしまいました。
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*安政東海大地震津波 M8・4 戸田の震度5 戸田総戸数五九三戸の内、二十四戸流失 潰家八十一戸 大破三十三戸
亡くなった方三十名
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このディアナ号の修理の場所として白羽の矢が立ったのが戸田の港でした。駿河湾は、日本一深い湾で、戸田の港も十分な海深があり2000トン級のディアナ号も乗り入れる事ができます。何とか自力で戸田の港に向かったディアナ号でしたが、突然襲った強風のため戸田湊には入れず、プチャーチン提督は乗組員全員に退艦命令を出しました。波にもまれるカッターボートを、漁民たちが命綱をつけ曳き、救助活動にあたったのです。500名余の乗組員は、村の人々の助けで奇跡的に上陸することができました。
その後、ディアナ号は百隻の小舟を使って、曳航されることになったのですが、またしても強風に見舞われ、最後は駿河湾に沈んで行きました。
ヘダ号建設
帰る船を失ったプチャーチン提督は、幕府に船の建造を願い出ます。ここでも戸田の船大工たちが、大いに力を発揮します。
和船の技術を活かし、全く新しい洋式船の建造に挑戦したのです。長さの単位も違い、基本的な船の構造も大きく違います。何より、言葉が通じないという大きな壁がありました。それでも技術者同士の交流は、目的を一つに見事な実を結んだのです。
ロシアの技術士官も、「継ぎ目の線がやっと見えるかと思うほど、ち密な仕事ぶりで、且つ迅速に几帳面に仕事にあたっていた」と日本の船大工を絶賛しています。何と本格的な日本初の洋式船は、およそ3か月という速さで造り上げられました。
感謝の念を忘れずに
日本初の洋船は、100トンにも満たない船でしたが、プチャーチン提督は、船の完成を喜び、自ら「ヘダ号」と命名しました。
そして「我が魂を永遠にこの地に留め置くべし」という言葉と、様々な記念の品を残し、ロシアに帰って行きました。
その言葉の表れが、娘のオリガ・プチャーチナさん(ロシア皇后付名誉女官)の戸田訪問です。オリガさんは、亡き父が戸田の人々から受けた多くの気持ちに感謝すべく戸田を訪れ、プチャーチン提督が滞在し、執務室に使っていた宝泉寺を初め、様々な父の足跡をたどりました。その後日本とロシアとの関係は良好なまま進んだとは言えませんが、時が流れ1969年に「戸田造船郷土資料博物館」が建設されるにあたって、ソビエト連邦政府は500万円を戸田村に寄付しています。当時のトロヤノフスキー在日ソビエト連邦大使が、直接戸田に赴き、山田三郎村長に手渡しています。ロシアにおけるヘダ号、戸田村の高い評価と感謝は、今も続いているのです。
日露和親条約
1856年、プチャーチン提督の副官だったポシェート氏が、日露和親条約の批准書を携え来日します。この折、ヘダ号も返却されました。ポシェート氏は1882年、日本を再訪し戸田湊に船を留め戸田村の人々との再会を果たします。戸田での数ケ月が、いかに思い出深いものであったのかを、この逸話は伝えています。
現在サンクトペテルブルグ外交史料館に保存されている「日露和親条約」の内容が、この資料館に展示されています。
全文をご紹介します。
日本国魯西亜国和親条約
魯西亜国と日本国と、今より後、懇親にして無事ならんことを欲して、条約を定めんが為の、魯西亜ケイヅルは、全権アヂュダンド・ゼネラール、フィース・アドミラール・エフィミュス・プーチャチンを差越し、日本大君は重臣筒井肥前守・川路左衛門尉に任して、左の条々を定む。
- 第一条 今より後、両国末永く真実懇ろにして、各某所領に於て互いに保護し、人命は勿論什物に於ても損害なかるべし。
- 第二条 今より後、日本国と魯西亜国との境、エトロフ島とウルップ島との間にあるべし。エトロフ全島は日本に属し、ウルップ全島、夫より北の方クリル諸島は、魯西亜に属す。カラフト島に至りては、日本国と魯西亜国の間において、界を分たず、是迄仕来の通たるべし。
- 第三条 日本政府、魯西亜船の為に、箱館、下田、長崎の三港を開く。今より後、魯西亜船難破の修理を加へ、薪水食糧、欠乏の品を給し、石炭ある地に於ては、又これを渡し、金銀銭を以て報い、若金銀乏敷時は、品物にて償うべし。魯西亜の船難破にあらざれば、此港の外、決て日本他港に至る事なし。尤難破船につき諸費あらば、右三港の内にて是を償べし。
- 第四条 難船、漂民は両国互に扶助を加へ、漂民はゆるしたる港に送るべし。尤滞在中是を待こと緩優なりといえども、国の正法を守るべし。
- 第五条 魯西亜船下田箱館へ渡来の時、金銀品物を以て、入用の品物を弁ずる事をゆるす。
- 第六条 若止むことを得ざる事ある時は、魯西亜政府より、箱館、下田の内一港に官吏を差置べし。
- 第七条 若評定を待べき事あらば、日本政府これを熟考し取計ふべし。
- 第八条 魯西亜人の日本国にある、日本人の魯西亜国にある、是を待事緩優にして、禁固することなし。然れども、若法を犯すものあらば、是を取押へ処置するに、各某本国の法度を以てすべし。
- 第九条 両国近隣の故を以て、日本にて向後他国へ免す処の諸件は、同時に魯西亜人にも差免すべし。
- 安政元年十二月廿一日(千八百五十五年一月廿六日)
- 筒井肥前守 花押
- 川路左衛門尉 花押
- エウヒミウス・プーチャーチン
- カヒテン・ポススエット
戸田造船郷土資料博物館建設
プチャーチン提督を始めとするロシアの人々の戸田村に対する友好の念は強かったのですが、戸田村の人々もこれに劣らぬ強い友好の念を抱いていました。
1904年には、日露戦争という事態を迎えますが、戸田村の人々は、プチャーチン提督が、感謝のしるしにと置いて行った品々を大切に保管し続けたのです。それもそのはず、安政の大地震では、村人も津波の被害にあい、自分たちの命を守り生活を守ることに必死だったのです。そんな状況の中で、500名もの異国の人々を命懸けで助け、介抱し、3か月の間手厚くもてなしたのです。
戸田村の人々と、ディアナ号の乗組員との間に生まれた心情、それこそが「友愛」の思いだったのでしょう。
1967年、戸田村の各地(個人所有など)にあったディアナ号、プチャーチン提督に関する品々が、静岡県の史跡に認定されました。これを受けて、戸田村の人々の総意で「戸田造船郷土資料博物館」が建設されることになりました。
友愛の像
昭和44年、当時の戸田村村長を務めていた山田三郎氏は、村民の心にある思いやり、助け合い、そして言葉の障害を越えて船を作り上げた、お互いを理解しあう心を、戸田村の象徴として残すことを考えました。
静岡県生まれの彫刻家・堤達男氏に依頼し、出来上がったのが、日本とロシアの青年の像「友愛の像」です。2人の青年は、船の錨を中央に手を重ねています。これはディアナ号とヘダ号の物語を表すと共に、「海は世界をつなぐ、友愛のきずなである」という、山田三郎村長の思いが表現されているように感じます。
山田三郎村長の思いは、自筆の石碑として、「日露友愛の像」の前に建立されています。
石碑の文面
日ソ友愛の像
海は世界をつなぐ、友愛のきずなである。孤立した島から、大陸から人はこのきずなによって結ばれ それぞれの文化を高め文明を築いて生きた幕末の頃 プチャーチン提督の乗艦ディアナ号が遭難するや戸田の人々はこれを助け露国人と共に協力して代艦戸田号を建造した。
友愛の灯はこの時 あかあか と二つの国を映したのだ 爾来幾星霜世相はどのように変ろうとも二つの国の人々の心の奥底に友愛の灯は決して消え失せることはないであろう
村長 山田三郎 謹書
友愛の松
記念資料館を建設し、ディアナ号との交流、プチャーチン提督の思い出を次代に継承したいと思った戸田の人々の思いに、ロシア側も当時のトロヤノフスキー在日ソビエト連邦大使が戸田を訪れ寄付の目録を手渡すなど、誠意ある対応で応えています。さらに、言葉の隔たりをこえて育まれた友情を称賛する思いは、日本もロシアも同じことです。戸田を訪れた記念に、トロヤノフスキー在日ソビエト連邦大使は、現在の戸田造船郷土資料博物館横にある、当時樹齢百年ほどの松を「友愛の松」と命名しました。この松は近隣でも珍しい程の大きな松となって今も元気に育っています。トロヤノフスキー在日ソビエト連邦大使は、ディアナ号の遭難、ヘダ号の進水を見ていたであろう浜辺の松を選んで、「友愛の松」と名付けたのはないでしょうか。
最後に
ここまでディアナ号、ヘダ号、プチャーチン提督にまつわる戸田の歴史を駆け足でご紹介しましたが、いかがでしたか?
紐解いてみればびっくりするような史実があるものです。そして事実のなかから浮かびあがってくる「友愛」の言葉は、国境を越え、言葉の違いを越え、人と人が仲良く出きることを伝えています。
私自身が一番興味深く感じたのは、日露和親条約と、和船と洋船の違いです。
紀伊国屋文左衛門のミカン船に見る和船は、確かにコロンブスのサンタマリア号やアメリカのコンスティチューション号とは、帆の向きが90度異なってます。大海原を走るには、洋式船の機能がいかに優れていたかが解ります。実際幕府は、戸田の船大工たちが覚えた技術を基に、洋式船の建造に乗り出しているのです。船の走るその海は、山田村長の言う「友愛のきずな」です。日露和親条約に記されていることは、海を絆に人々が友愛の理念のもと友好関係を築くことができる証だと思います。
今回の取材では、多くの方にお世話になりました。改めて厚く御礼申し上げます。 随行取材/羽中田記
- ディアナ号模型。写真では解りにくいが、ヘダ号と比べるとかなり大きさが違う。2000トン級
- ヘダ号模型。日本初の洋式帆船として進水した。ディアナ号模型と同じ縮尺で作られている
- 宝泉寺の一室に今も保存されているプチャーチン提督の執務机。当時の記録絵など、貴重な資料も
- プチャーチン提督一行が滞在していた「宝泉寺」。境内にはロシア水兵の墓もある
- 日露和親条約の全文。左上奥には、原本にある2人の日本人の花押も見られる。日露友好の原点
- 戸田造船郷土資料博物館全景。右にディアナ号の錨が、左に友愛の像が飾られている
- トロヤノフスキー在日ソビエト連邦大使が命名した「友愛の松」大きく繁って全景は収まらない
- 熱心に説明を聞く川手常務理事(写真左から2人目)と奥田吉郎理事(写真右から2人目)
- 宝泉寺に祀られているロシア水兵の墓。亡くなられた2人の水兵は、大きなしだれ桜の下で眠っている
- 「友愛の広場」手前の石にその名が刻まれている。木々に囲まれた静かな場所だ。左奥が博物館
- 戸田の海。透明感があり、穏やかに凪いだ海は、素晴らしい。岬の向こうに富士山が見える
- 博物館の前に建立された「友愛の像」錨を手に、遠く友愛の海を見晴らしているのだろうか
- 山田三郎村長の思いを込めた石碑。友愛の像の前にある。(全文は本文中に掲載)
- ディアナ号の錨。2000トンの船に相応しい立派な錨だ。重さ約4トン/長さ4.8メートル
- 宝泉寺に保管されている「友愛の像」原型。プチャーチン提督の執務室であった机に飾られている
- ヘダ号建造の地を示す「造船記念碑」は戸田の湾の中心辺りに建立されている。近くには戸田の製塩所もあり、左には海水浴場もある穏やかな海に臨んでいる。戸田灯台、日露友好記念碑など岬を巡ると歴史散策ができる